中学生のときにアメリカの青春映画「アウトサイダー」を見たときの感動は今も忘れません。完全にノックアウトされました。
みんな、カッコいい!大人っぽい!
1980年代の青春映画に出演していた若いイケメン俳優たちは、ブラットパック(brat pack)と呼ばれていました。
もっさりした中学生の私から見た彼らは、本当にキラキラしてまぶしかったのです!
当時、洋画は必ず2本立て。私にとっての映画のふるさと"大宮ハタシネマ"に足しげく通いました。「フラッシュダンス」と「フットルース」も、私の心に鮮やかに残っている作品です。
そして映画のエンドクレジットの最後に出てくる「字幕翻訳:戸田奈津子」という文字。
「映画を見て、それを日本語に訳すという職業があるのか!」と知ってびっくりしました。映画を見るのが仕事なんて最高じゃない!と思ったのです。当時、映画の字幕翻訳はほとんどが戸田奈津子さんでした。
洋画を日本語字幕で見ながら、短いセリフであっても英語が聞き取れると「やった!聞こえた!」と喜んでいました。そのウキウキ回数を増やしたい、というのが英語をがんばるモチベーションでした。
まずはNHKラジオの英語講座を聴き始めました。日本人講師とネイティブの先生とのやりとりを聞くのが楽しくて、講座をカセットテープに録音して何度も繰り返し聴いたものです。ラジオ講座を聴く習慣は大学生になるまでずっと続きました。
日本を飛び出して世界を旅したい、といつも思っていました。小さいころ、家族で「兼高かおる 世界の旅」を見ていたせいかもしれません。
物心がついたころには、世界の国々を紹介するフジテレビの「なるほどザ・ワールド」という番組が大好きで、毎週かぶりついて見ていました。
この番組の突撃レポーター益田由美さんが最高だったんです!世界を旅するには、勇気と度胸が必要なんだと思いました。
最初に見たアメリカのTVドラマは「大草原の小さな家」。家族そろって見ていました。アメリカって広いんだな… たくましくないと生きていけないんだな… と感じたのを覚えています。
戸田奈津子さんは、大物スターが来日すれば必ずといっていいほど通訳をしていました。「字幕翻訳家=俳優の通訳」というイメージは戸田さんが確立したわけです。
映画を見るのが仕事で、ハリウッドスターが来日したら通訳をつとめるなんて、そんなステキな職業ほかにないっ!
そう思った私は「戸田奈津子さんみたいになりたい。いや、絶対になってみせる!」と思いました。目に見える分かりやすい憧れが存在していると、ピンポイントで目標を定めやすいです。
私が高校生だった1985年に放映されたテレビドラマ「金曜日の妻たちへⅢ 恋におちて」で、女優のいしだあゆみさんが字幕翻訳家を演じていました。
このドラマを見てはじめて、試写室の一番奥にある字幕翻訳家の「特等席」を知ったのです。
映画のプリントに初めて字幕が焼き付けられた試写を「初号試写」といいます(今はデジタルでしょうけど)。字幕翻訳家は試写室の一番うしろにある、手元を照らせる小さなライトがついた「特等席」に座ります。字幕が出るタイミング、誤字脱字、流れが止まる箇所はないか、などをチェックするのです。
いつか字幕翻訳家になって、あの「特等席」に座りたい!と強く思いました。
慶應大学文学部では英米文学を専攻しました。
家を出る前にJ-WAVEの朝番組「Tokyo Today」をいつも聴いていました。ナビゲーターのジョン・カビラさんのバイリンガルぶりにはシビれましたね。
特に好きだったのが「突撃電話」。世界の面白いニュースを見つけてきて、その当事者に予告なしで電話をするのです。
化粧する手を止めて、スピーカーから聞こえる英語に耳を澄ませました。カビラさんから突然電話がかかってきて驚く相手の顔を想像するのが楽しかったです。
英語が話せると世界が広がる!と実感させてくれたのがジョン・カビラさんです。
大学2年の夏、サンフランシスコ郊外で2週間ホームステイを経験しました。初めての飛行機、初めての海外。何から何まで初めてで、ものすごく緊張したことを覚えています。
英語に自信があったわけではないのですが、なんといっても憧れのアメリカ!もう興奮状態でした。
ホストファミリーとは何とかやりとりできました。聞かれたことに対して、かろうじて「Yes」か「 No」で答える有様でしたけど…
居間にピアノがあったので、あるときポロリンポロリンと弾いていたら拍手されたことを覚えています。音楽は万国共通語、言葉を超えて伝わるものだ、と初めて気づきました。
一度「私が日本食を作ります」と言って、豆腐の味噌汁を作ることにしました。メインはホストマザーが作ってくれるだろうと思っていたら、なんと豆腐の味噌汁がドーンとメインに出されてしまったのです!肉も魚もないっ!
これは私の思い込みが招いた失敗です。味噌汁はサイドディッシュであること、メインは作ってほしい、ときちんと伝えておくべきでした。
冷蔵庫にあるものをありあわせで追加しましたが、悲しくて恥ずかしい夕食でした。
ある晩、ホストマザーが電話しながら泣いていたんです。「どうしたの?何があったの?」と聞きたかったけど、英語でどう言ったらいいかわからない。身近な人を励ましたり、なぐさめたりする英語が言えるようになりたい、と思いましたね。
2週間はあまりにも短く、本当にあっという間に終わってしまいました。
大学では教職課程を取っていました。先生になりたいと思っていたわけではありませんが、文学部は教職課程に必要な科目と専攻の必須科目がかなりかぶっていて、それほど苦労しなくても取れたのです。
大学4年生のとき、自分も通った蓮田市立黒浜中学校で2週間英語の教育実習をしました。担当したのは2年生。私が通っていたころにもいた先生がまだ何人もいて「お前も成長したな!」と言われて恥ずかしかったのを覚えています。
生徒たちがみんな素直でかわいくて、一緒に給食を食べたのもいい思い出です。このころは字幕翻訳家になることしか考えていなかったので、まさか将来、自分が英語を教えることになるとは思っていませんでした(写真の黒板に書いてありますが、旧姓は「大田」です)。
教育実習を終えて就職活動に入りました。自分が入りたい会社を見つけて字幕翻訳家の夢をかなえようとがんばった話は【第2話】にて。
©2024 Naoko Shiohama