就職活動をしたのは、まだバブル時代の残り香があった1991年。黒や紺のスーツを着こんで、興味がある企業に勤めている先輩に話を聞きに行きました。
究極のゴールは字幕翻訳家になること。でも大学を卒業してすぐになれるわけではないことはわかっていたので、「英語」と「映画」をキーワードに会社をさがしました。
新卒採用情報誌をパラパラめくっていた私の目に飛び込んできたのが「ギャガ・コミュニケーションズ」。1986年設立。1991年当時はまだ創業5年、社員も70名ほどでした。
海外の映画マーケットで洋画の権利を買いつけるのが主な業務。日本での販売権をビデオメーカーに売り、ビデオメーカーがビデオ化します。急激に増えていたビデオレンタルの波にのって、急成長している会社でした。
配給会社として映画を劇場公開もしていました。ミシェル・ファイファー主演の「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」を配給した会社と知って興奮したのを覚えています。ちなみにこれ、すごくいい映画ですよ。
海外映画の買い付けは英語力が必要。映画の劇場公開ということは字幕翻訳も関わってきます。「この会社に入りたい!」と思いました。
知り合いをたどって、ギャガに勤めている大学の先輩に会うチャンスを得ました。
その先輩がきっぱり一言:「新卒で入る会社じゃないわね」
「えぇ〜そんなぁ〜(涙)」と内心ショックを受けましたが、その先輩女史が帰国子女でカッコよかったのです。日焼けした肌、メッシュの入った長い髪、もちろん英語堪能。リラックスした雰囲気がステキでした。
そして「やめておけ」と言われてもギャガに入りたいと思った理由が私にはあったのです。
私はこう思っていました。
「字幕翻訳家になれたら、他のどんな仕事もうらやましいと思わない」
大企業に就職してやりがいのある仕事ができたとしても、きっと「字幕翻訳家になりたかった」という気持ちが残ると思ったのです。
字幕翻訳家になる夢をかなえるための道筋がはっきりと見える会社は、私にとってギャガだけでした。
入社してすぐには字幕の部署に配属してもらえませんでした。
営業、秘書業務、海外子会社管理、広報を4年。ずっと「字幕の部署に異動したい!」と言い続けていたのですけどね。
でも英語を使う仕事はたくさん経験できました。
広報時代には、カンヌ映画祭で自社の記念パーティーをコーディネートしました。さらに海外子会社の連絡窓口を担当して、英語を使うチャンスが多かったのはうれしかったです。
うれしかったとはいえ、英語の実力は伴っていませんでした。日常会話はおろか、ビジネス英語は経験したことがありませんでしたから。
それまで実際に英語を話したのはラジオ講座で繰り返し練習したときと、大学2年の夏に2週間サンフランシスコにホームステイしたときだけ。
でもまわりからは「英文科出てるんだから英語できるよね」と言われます。必死にがんばりましたが、何とかその場をしのいで切り抜けていただけでした。
海外とのコレポン(correspondenceの略)は、まずワードで作成して印刷。上司にチェックをしてもらってからファックスしました。国際電話は毎回緊張しましたね。
とはいえ、社員が少なくて新人にもいろいろ仕事を任せてくれる会社だったのはラッキーだったと思います。英語を使うしかない状況に追い込まれて、きたえられました。
字幕翻訳家になる夢は片時も忘れず、週末に字幕翻訳の学校に通いました。
入社して4年後、めでたく字幕制作の部署に異動できました。会社が海外で買い付けてきた映画に日本語の字幕をつけて(当時はフィルムプリント)、劇場にプリントを納めるまでが仕事です。
この部署で字幕翻訳をやるわけではありません。
字幕翻訳家に翻訳を依頼して、スケジュールを調整。上がってきた翻訳をチェックします。誤訳がないか、誤字脱字・差別用語がないかどうかも目を光らせました。映画字幕特有の文字を書く「書き屋さん」に会えたのもこのころです。
憧れの戸田奈津子さんに会ったのは数回。いつも忙しそうにしている方でした。
戸田さん以外にも、字幕翻訳家としてピラミッドの上のほうにいる方々にお会いしました。みなさん個性豊かで魅力的。「私もいつかきっと!」と夢はふくらむばかりでした。
字幕制作の部署で2年修行したあと、思い切って会社を辞めて独立しました。28歳のときです。
字幕制作部門で字幕業界の人脈を作っておいたことで、かなりコンスタントに仕事がもらえました。でもフリーランスになると「次の仕事が来るのか?」という不安が常につきまといます。だから予定が空いていれば、来るもの拒まず何でも引き受けました。
エロい映画でもグロい映画でも何でも翻訳しましたが、世界にはいろんな映画があるなぁ〜と驚くことが多かったです。とにかく、字幕の仕事ができる!というだけでハッピーな私でした。
娘2人の妊娠出産で小休止はあったものの、10年間ずっと字幕翻訳の仕事をしました。少しずつ規模の大きい作品の字幕を頼まれるようになったのです。
字幕翻訳家としてはペンネーム「蒼井尚子」を使っていました。当時のブログ「字幕翻訳家:蒼井尚子の生活 1秒4文字に凝縮する想い」(http://officetrueblue.cocolog-nifty.com/blog/)がまだ残っています。昔の日記を読むようでかなり気恥ずかしいですね。
字幕翻訳家になって、いつも聞かれる質問がこれ。
「字幕翻訳家?じゃあ 英語ペラペラなんですね」
この「じゃあ」の中に「戸田奈津子さんみたいに」という意味が含まれているのですよ。少なくとも私はそう感じました。
お世辞にもペラペラではなかった私は、いつもこう答えていました。
「いえ、字幕翻訳は話す必要がないので、私はペラペラじゃありません」
本当になさけなかった。心の中では「英語が話せるようになりたい」と思っているのに。
時間があるときには英会話学校にも通いました。しかし学校の外に一歩でたら、英語を話すチャンスはゼロ。ネイティブに個人レッスンを受けたり、サイマル・アカデミーで通訳を夢見たり、いろいろと試行錯誤しました。
「字幕翻訳の仕事ができているんだからいいや」「英語が話せなくても生活に困らないし」と半ばあきらめていた部分もあります。「どうせムリ」と自分の気持ちにフタをすれば、できない自分にがっかりすることもないし…
でも「英語が話せない」ことが最大のコンプレックスであることは自覚していました。
字幕翻訳の基本ルールは「1秒4文字」におさめること。そのために字幕翻訳家は七転八倒しています。
字幕をやっていたころは私も「1秒4文字にぎゅっと凝縮する作業こそが楽しい」と感じていました。そこが腕のみせどころですからね。
「ぎゅっと凝縮」という言葉どおり、字幕からはかなりの量の情報がこぼれおちています。訳しきれない英語が、本当にたくさんあるのです。
だから、心の底でいつもこう思っていました。
字幕なしで英語のセリフをそのまま理解できたらどんなに楽しいだろう!
さらに心の中で常にうずまいていた不安がこれ。
私はセリフを本当に正しく理解できているのだろうか?
微妙なニュアンスの解釈に、十分な確信が持てませんでした。ネイティブの友人に聞くにしても、そのセリフの文脈、映画の時代設定や文化背景を説明する必要があります。その時間的・精神的余裕がありません。
いや、それより、英語で質問する勇気と実力がなかったのです。
海外の常識や考え方を理解するには限界がある、とあきらめていました。こればっかりは自分で体験しないとわからない部分だろう、と。
できることなら、しばらく英語圏で生活して生の英語を肌で感じたい。いやでも英語を使う状況に自分を追い込みたい。英語コンプレックスを克服したい。
字幕翻訳の仕事をすればするほど、本物の英語力を身につけたいという気持ちが強くなりました。
昔から海外を旅するテレビ番組が好きで海外生活にあこがれていましたが、留学するには経済的な余裕がありません。字幕翻訳家を目指したのも「海外生活なんてどうせムリ」な自分が望みうる最も理想的な職業だったから。「どうせムリ」と自分の心にフタをすれば、実現できなくて傷つくこともありません。手が届く範囲の夢で妥協するほうが気持ち的にラクだったんですね。
「字幕翻訳をやっているんだからそれでいい」と、自分の中にあるマグマを必死に冷ましていました。1回目の結婚が破綻して離婚していたので、「字幕翻訳家として生きていく」という気持ちがあったことも確かです。
やがて今の夫に出会って再婚。英語ができる人なので「いつか海外で暮らしたいね」という話をするようになり、冷えていたはずのマグマが熱くなってきました。さらに娘2人が生まれて「娘たちには私のような英語コンプレックを持たせたくない」と思ったのです。
移住を現実にするためにはいろいろな準備が必要でしたが、とうとう2009年、サンディエゴ移住が決まったのです。続きは【第3話】にて。
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