しかし移住直後に英語の壁が大きく立ちはだかりました。
言いたいことが英語で言えない、相手が何を言っているのか聞き取れない。
友人がいない孤独感、新しい環境に対応するストレス、
子育ての疲れが重なって、つらい日々を過ごしました。
正直言うと、せっかくここまで続けてきた字幕の仕事を中断し、アメリカで子育てに専念するという不安は大きかったです。
やっと劇場公開作品を翻訳できるようになったのに…
字幕翻訳家として、さぁこれから、という時期なのでは?
でも「英語が話せるようになりたい」「英語圏で生活したい」という気持ちは字幕翻訳家を越えたところにありました。あまりにも高くて頂上が見えない山のようなイメージ。でも、山頂にたどりつけないとしても8合目ぐらいまでは頑張ってみたい、と思いました。
字幕翻訳家になったものの「第2の戸田奈津子」と呼ばれるにはほど遠いレベルでした。でもその残念な現実が、移住を決断させてくれたのです。
誰もが知っているヒット作を翻訳したことはないし、地味で小粒な映画をコツコツと翻訳してました。とにかく字幕の仕事ができるだけでうれしかった私です。
もし「第2の戸田奈津子」として前途洋々だったら、サンディエゴに移住せずに日本で字幕翻訳を続けたかもしれません。
2009年9月、家族でサンディエゴに移住しました。私は40歳目前、娘は5歳と1歳でした。
たくさんアメリカの映画を見てきたし、持ち前の明るさと能天気さをもってすれば、すぐに新しい環境になじめると思っていました。甘かったです。
実際に英語で生活してみると、思った以上に聞き取れない/伝わらない自分の英語力にがっくり肩を落とす日々が続きました。
渡米前に、最低限の英会話を練習しておくべきでした。実際に口・アゴ・舌・唇に英語を覚えさせないと、とっさのときに出てきません。日本語と英語では話すときに使う口周りの筋肉が違います。もっと徹底的に口を動かして練習しておけばよかった、と後悔しました。
さらに、生来の完璧主義が自分を追いつめました。言いたいことを全部英語で伝えたい!こまかいニュアンスまで伝えたい!と思っていたのです。
言いたいことが英語で言えなくて落ち込み、自信がなくなって英語を話すのが怖くなる。まさに悪循環…
伝えたいことの要点をおさえて5割伝わればよしとする。その割合を少しずつ増やしてけばいい、という考え方に気づいたのはずいぶん時が経ってからのことです。
サンディエゴに引っ越してすぐ40歳になった私。日本を飛び出して心機一転!と意気込んだ風船は英語の壁にはばまれて、しばらくシューッととしぼんでいました。
最初の数ヶ月は社会保障番号(SSN)がなかったので、人間扱いされてない気がしました。大げさに聞こえるかもしれませんが、アメリカではさまざまな手続きに社会保障番号が必要なのです。
一人前の人間として扱ってもらえない。英語のやりとりもうまくいかない。日本でいままで築き上げてきたものがすべて消えて、自分の人生が白紙に戻ったような気がしました。
我が家は駐在ではないのですべて自費です。100万円以上かかった引越し代、予想以上に高い家賃、目玉が飛び出るほどの健康保険料。
特に渡米してすぐはクレジットヒストリーがないので、何をやるにも手付金として現金を要求されました。ざるから水がこぼれるようにお金が消えていく恐怖感は今も忘れられません。
新天地では友達や知り合いがほとんどいなかったこともつらかったですね。もちろんそれを覚悟で移住したわけですが、実際にその孤独にたえるのはしんどかった。心の中は、こんな気持ちでいっぱいでした。
こんなはずじゃなかった。アメリカでの生活は、もっとキラキラ輝いてるはずだったのに。
私は子育てが苦手。日本では、娘二人とも1歳から保育園に預けて仕事をする時間をもつことで正気を保っていましたからね。
サンディエゴで住む家を決めてすぐ、長女はKindergartenに入りました。でも1歳だった次女はまだプリスクールに入れません。入園できる2歳半まではずっと世話をする必要があったのです。一人で黙々と遊ぶタイプの手がかからない子だったので助かりましたが、1歳児と毎日ずっと過ごすというのは私にとってかなりつらい日々でした。
今から思えば、軽いうつ状態だったと思います。
夫はアメリカ生活の基盤を作るべく必死で働いてくれています。つまり常にいない状態。彼に余計な心配をさせないよう、私は子育てと家のことをしっかりやらなくちゃ!とかなりテンパっていました。
言葉の壁、孤独感、うまくいかないことの連続で、一時期はまったく笑えなくなりました。さらにひどいときは、しらないうちにポロポロと涙がこぼれてしまうのです。私の人生ではじめてのことでした。
私を救ってくれたのは、二人の娘でした。とにかく無邪気で明るい!
私が泣いていると「ママ、だいじょうぶだよ、泣かないで」と言いながら、ちっちゃな手で優しく背中をトントンしてくれました。
もう1つはサンディエゴの温暖な気候です。サンサンと輝く太陽、スコーンと抜けるような青空、カラリとした空気。そして車を5分走らせれば海があります。この環境は本当にありがたかった。
英語圏に暮らすことを具体的に考えていたので日本での家はずっと賃貸。サンディエゴ移住にあたっては家具も車もすべてを売り払いました。つまり戻る場所を残さなかったのです。
「日本に戻る選択肢はない」と退路を断ったことが、笑えなくなろうと涙がこぼれようと踏んばれた理由です。
英語のコミュニケーションでつまずいた私ですが、子育ては待ってくれません。長女の学校行事、先生との面談、ボランティアなど、目の前にあらわれたことを1つ1つこなす日々でした。
電話がかかってきたら「もしもし」でなく「Hello」。だれかにぶつかったら「すみません」でなく「Excuse me」。当然といえば当然なのですが、実際にすべてを英語でこなすというのは想像以上に大変でした。
病院の予約、習い事の申し込みなど、日本語であればカンタンなことも英語となると勝手が違って戸惑うことも多かったです。
でも、私の英語力不足で娘たちにふびんな思いをさせたくない!という気持ちが原動力。英語でうまくいえないときは、写真を見せたり絵で説明したりもしました。そのときに自分がもっているものを総動員するしかないのです。
言いたいことすべてを英語で言えなくてもいい。ペラペラでなくていい。自分にとって必要な「いざというときの英語力」を磨く努力を毎日続けるしかない。腹をくくり、いい意味で開き直りましたね。
そんな調子で毎日を過ごすうちに、カチカチに凝り固まった英語コンプレックスがゆっくりと溶けだしました。そのかわりに「このまま続ければ大丈夫」という小さな自信の種が生まれたのです。
毎日コツコツと英語を使い続けることがその種を育てるための水や栄養分となり、種から芽が出てきました。
日本では、娘二人が寝る前に日本語の絵本を読みきかせていました。サンディエゴに移ってからも、しばらくは日本語のものばかり読んでいましたね。最初の半年〜1年ぐらいは、長女も英語より日本語のほうが強かったですから。
絵本というのは、その国の文化や伝統が色濃くにじみ出るもの。日本でも「一寸法師」「かぐや姫」「桃太郎」などは誰もが知っている話ですよね。アメリカにもそういうたぐいの、子供のころに誰もが読む絵本があるわけです。
学校の先生や同じクラスのママたちにアドバイスをもらいながら、学校の教室や図書室にある本をかたっぱしから借りました。
正直いって「え?私が英語の絵本を読んで聞かせるの?」と最初はちょっとひるみました。このへんが私の甘いところで、子どもをアメリカの現地校に通わせるということは、母親としても英語を基本にしなくてはいけないことをきちんと把握していなかったのです。
さらっと「絵本の読み聞かせ」と言いますが、けっこう大変!絵本とはいえ知らない単語がたくさん出てくるんです。初めて読む絵本のときは、事前に発音と意味をせっせと調べました。
その甲斐あってか、娘二人がすごく喜んでくれたんですよ。今日はこの本、明日はあの本、とリクエストしてくれました。「ママも頑張ってる!」と思ってくれたのかもしれません。
毎晩読んでいるうちに、私自身も絵本の読み聞かせが楽しくなってきました。英語の発音練習にもなったと思います。
次女がプリスクールに通うようになると、ようやく自分の時間が持てるようになりました。週2回、午前中だけでも私にとっては貴重な時間です。
まずは英語が母国語ではない人向けの英語レッスン(ESL)に参加してみました。良心的な値段、場所によってはタダで英語を教えてくれるので大人気。キャンセル待ちのこともあります。
人気なだけに1クラスの人数も多くて、先生が一方的に指示を出して生徒がそれに従う形でした。先生がアメリカ人という以外は日本での英語の授業と同じじゃない!と思いましたね。数回は参加しましたが退屈で物足りない。好きな映画やドラマを見たり英語の本を自分で読んだほうがいいや、と思ってすぐにやめました。
結局、好きなことに戻るんですよね。NetflixでDVDを借りまくりました。映画はもちろんですが、面白いTVドラマが選ぶのに困るほどたくさんあって、うれしい悲鳴でした(キャッホー)!
当然ですが日本語字幕はありません。いつも英語字幕を出して見ていました。
そうこうしているうちに、だんだん気持ちも上向きになってきました。やはり自分が好きなことをやるのが心の特効薬ですね。
心も生活も落ち着いてきたと思えるようになったのは、移住して3年経った2012年ごろでした。
そんなとき、UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)で日本語を教える助手の仕事をやることになったのです。これがきっかけで、英語を教える資格をとることを決めました。続きは【第4話】で。
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