2012年、UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)で日本語の授業の助手(Teaching Assistant)をやりました。
大学の先生が用意してくれた教材で、学生に発音練習をさせたり会話練習をさせたりする仕事です。
自然に覚えた母国語(私にとっては日本語)を外国人の学生に第二言語として教えるためには、さまざまな知識と技術が必要であることを初めてリアルに意識しました。
母国語として自然に覚えた「てにをは」の使い分けなどを、私はうまく説明することができません。日本語が話せるからといって日本語を教えられるわけではない、と気づいたのです。
「教えるのって楽しい!」と思ったのもこのときです。
マスターするのが難しい言語のひとつである日本語を学ぼうとする真面目な学生たち。分からないところを、たどたどしい日本語で聞いてきます。それを私なりに説明して分かってもらえた時の喜びは、言葉にできない、心にじんわりくるものでした。
日本語を教えるのはとても楽しかったです。
でも私が好きなのは英語。できるようになりたいのも英語です。だから英語が母国語でない人に英語を教える資格TESOL (Teaching English for Speakers of Other Languages)を取ろうと決めました。
私は英語が大好きで、英語のことなら何でも知りたいと思っています。ずっと教えてもらう側だったけれども、教える側に立ったら別の視点から英語を見ることができると思いました。
ただ勉強するだけではなく「資格を取る」というニンジンがぶらさがっていたほうがやる気が出ます。無料だと「どうせタダだからや~めた」となりがちですが、かなりの金額を投資すると必死になります。
万が一、日本に帰ることになって仕事を探す場合、字幕翻訳に戻るという道のほかに「英語教師」という選択肢が増えるわけです。
我が家は基本的に日本語。アメリカに住んでいるのに英語を使わずに過ごせてしまうことが多いのです。
これじゃダメだ、自分を英語漬けにしよう!と思いました。
アメリカで暮せば自然に英語が話せるようになると思ったら大間違いです。使わないと上達しません。どこまで自分ががんばれるかを試したい、という気持ちもありました。
娘が学校に行っている平日の昼間に授業を受けるのが理想でしたが、通学タイプは授業がすべて夕方。受講生のほとんどが昼間に仕事をしている現役の英語教師や社会人だからです。
夫は出張で不在がちだし、学校のお迎えは2時半ごろ。夕方に家をあけることはできないので通学はあきらめました。
でもオンラインコースがあったのです!教授にもクラスメートにも実際に顔を合わせることはできませんが、好きな時間にマイペースで勉強できます。
5年以内に必修科目でC以上をとれば資格が取れる、と書いてあったので、あせらずに自分のペースで進められるオンラインコースを選びました。
TESOLの資格取得コースを受講する条件として TOEFL iBT(コンピューターで受けるタイプのTOEFL)のスコアが69点以上が必要、と書いてありました。しかしTOEFLというテストは一度も受けたことがなかったので、どう勉強すればどのくらいの点数がとれるのか見当もつきません。
まずは公式の練習問題集から始めたのが2012年の年末。2013年の春から受講をスタートしたかったので、TOEFLテストは2月に受けることにしました。つまり試験の準備期間は2カ月と考えていたのです。
しかし思った以上に難しくて、模試を受けてみたものの全然いい点数が取れません。2月のテストは4月に延期し、ひたすら勉強しました。
その結果、無事69点以上が取れました。TESOLのコースを申し込むときに「TOEFLのテスト結果をどうやって報告するのか」を電話でたずねたら「あれは単なる目安だから別に受けなくてもいいのよ」と言われてショック!事前にそれを確認しておくべきでした。
受けなくてよかったとしてもTOEFLの勉強はムダではありませんでした。英語でのクラスを受講する心の準備ができたのです。アカデミックな英文を読むことに慣れる必要性、語彙力不足など、自分の課題が一層はっきりしました。
この時点ではあまり深く考えていませんでしたが、それまでアカデミックな英文は短いエッセイすら書いたことがありませんでした。大学の卒論も日本語でしたからね。英語を書いた経験はメールのやりとり程度でした。
今から思うと、ずいぶん思い切ったことをしたものです。「思い切ったこと」というよりとんでもないことに飛び込んでしまったことに気づいたのは受講をスタートしてからでした。
必修科目は下記の8つでした。
クラスメートはネイティブ、しかも学校で教えている英語の先生ばかり。大人ばかりの集まりに間違えて入りこんでしまった子どものような気持ちでした。「こんなこと続けるの無理だよ〜」という弱気な自分と、「自分でやると決めたんだから、しっかりやれ!」と厳しくお尻を叩く自分の間で揺れ動きました。
娘たちを学校に送って最低限の家事をこなしてから、平日9時〜2時はひたすら勉強。教科書・文献・資料を読み、ディスカッションボードに意見を書き込み、課題をこなし、テストに備えました。
娘を学校にお迎えに行ってからは母親としての雑事に追われ、絵本を読み聞かせて娘を寝かしつけてからまた勉強。いつもなら夜9〜11時は映画かドラマを楽しむ時間なのですが、TESOLを受講しているときは完全に勉強に当てていました。そうしなければ追いつかなかったのです。
私の強みは、英語を教わる側の気持ちが分かること。クラスメートから「教わる側としてはどう思うか?」という質問をよく受けました。できるだけ正直に、気持ちをこめて答えましたね。
教科書には「こうすべき」と書いてあることでも、私個人としては「ん?」と疑問に思うことがあったので、そういう点を指摘したこともあります。
英語という大海原を必死に泳ぐ
英語を教えるにあたっての専門用語がどんどん出てきて、受講中は常に頭の中がグツグツ煮えている感じでした。何度か読まないと理解できないことが多いのですが、それをやっていると時間が足りない。だから重要なポイントにはポストイットを貼っておき、そこだけを読み返すようにしました。
教科書や資料を読み込むだけでなく課題やテストに追いまくられて、果てしない海を息つぎなしで泳いでいるような気持ちでした。自分が望んだこととはいえ、正直いってとても苦しかったです。
でも、私が必死になって泳いでいたのは「英語を教えるために必要な知識」という大海原。知れば知るほど奥が深い英語の世界に魅せられ、知識を無限に吸い込める巨大なスポンジになりたい、と思いました。
大きな波にのまれて沈んでも懸命に浮き上がり、やっとの思いでたどりついた砂浜には大きなごほうびが私を待っていました。
2年間の猛勉強で、イヤというほど英語を読んだ私。いくら私が英語好きといっても、英語の文法や英語教授法などの教科書をひたすら読むのはかなり骨が折れました。
でもそのおかげで、英語のボキャブラリーがすさまじく増えたのです。
知っている言葉が増えることで、こんなにも英語の不安が減るのか!と驚きました。
まだ会話で使うことはできなくても、言われたらわかる、読めばわかる、というのが安心感につながることを発見しました。
知っている言葉が増えたことで、いいことがたくさんありました。
いやはや、英語のキモはボキャブラリーだ!と確信しました。
集中的な猛勉強、そして年齢的なものもあったのでしょう。ストレスが原因か更年期障害なのかわかりませんが、ガクンと体調を崩してしまったのです。
ちょうど教育実習の中休み、感謝祭の時期でした。2週間ずっと下痢と嘔吐が続いたのです。病院では胃腸炎と診断されました。体重は5キロ以上減り、頬がこけてやつれました。
「実習はあきらめよう」とも考えましたが、しばらく休んだあと、座っての見学にしてもらって無事やり遂げました。
回復はしましたが、そのあと8年にわたって、数ヶ月に1度は発熱して寝込むことが続いたのです。
体調に自信がもてない状態で、どうやって英語を教えられるか?私なりの教え方を模索しはじめました。続きは【第5話】で。
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